ツルさんは、笑わない人、だった。
九十四歳。何を言っても、にこりとも、しない。職員さんの冗談も、季節の花も、何も、ツルさんの心を、動かさないように、見えた。「もう、長く、生きすぎた」。それが、口癖だった。
ある日、職員の湊さんが、育休から、生後半年の、赤ちゃんを連れて、みんなに、顔を見せに、来た。フロアが、わっと、にぎやかになった。私が、その赤ちゃんを、抱っこさせてもらって、歩いていると、ツルさんの前を、通りかかった。赤ちゃんが、ツルさんを見て、きゃっきゃっと、笑った。
その瞬間。ツルさんの、岩のようだった顔が、くしゃっと、崩れた。笑ったのだ。皺だらけの手を、おそるおそる伸ばして、赤ちゃんの、小さな手を、握った。「……あったかいねえ」。目に、涙が、光っていた。「いいねえ。これから、生きるんだねえ。いいねえ」。
次の週から、ツルさんは、毛糸を、編みはじめた。震える手で、ゆっくり、ゆっくり。何を編んでいるのか、聞いても、教えてくれない。
ひと月後。ツルさんは、小さな、赤い、毛糸の靴下を、湊さんに、差し出した。「……あの子に。これから、寒く、なるから」。
「神マナ物語」は、小規模多機能ホーム「えんがわ」に通う、ボランティアの学生・神崎まなの物語です。 → 登場人物と舞台について(はじめに)
