ボランティアの私が、いちばん、苦手だったのが、タカ江さんだった。
元・小料理屋の女将。八十九歳。デイに来ても、だめ出しばかり。「お茶がぬるい」「その挨拶、心がこもってない」「あんた、笑顔が、営業くさいよ」。何をしても、合格をもらえない。私は、毎日、半分、泣いていた。
ある日、私が、おしぼりを配っていた。流れ作業で。タカ江さんが、私の手を、ぴしゃりと、止めた。「あんた、今、私の顔、見てないだろ」。ぎくりとした。たしかに、見ていなかった。次の人のことを、考えていた。「店をやってた四十年、私はね、おしぼり一本でも、客の顔を見てから、出したよ」。それだけ言って、ぷいと、横を向いた。
次の日から、私は、一人ひとりの顔を見て、おしぼりを渡した。「今日は、いい色ですね」「ちょっと、お疲れですか」。タカ江さんは、何も言わなかった。だめ出しも、しなかった。私は、それが、こわかった。怒られないのが、不安だった。
冬のはじめ、タカ江さんは、入院した。お見舞いに行くと、もう、あまり、しゃべれなかった。帰りぎわ、私は、いつものくせで、枕元のお茶が、飲める温度か、確かめた。少し、冷ましてから、そっと、口元へ、運んだ。タカ江さんは、ひとくち飲んで、目だけで、笑った。そして、かすれた声で、言った。「……合格」
その一言を、私は、半年、待っていた。
「神マナ物語」は、小規模多機能ホーム「えんがわ」に通う、ボランティアの学生・神崎まなの物語です。 → 登場人物と舞台について(はじめに)
