トキさんは、自分の髪を、誰にも、触らせなかった。
九十一歳。お風呂のあと、職員さんが櫛を渡そうとすると、手で払いのける。髪は、いつも、ぼさぼさだった。「ほっといて」。それが、口癖だった。記録には「整容拒否」とだけ、あるらしい。
ある日、桐山主任が、教えてくれた。「トキさんはね、昔、町の美容師さんだったの。五十年、店に立ってた人」。その日、私は、櫛を渡すかわりに、言ってみた。「トキさん。私、髪を結ぶの、下手で。……教えて、もらえませんか」。トキさんは、けげんな顔をして、それから、ためらいがちに、私の後ろに、回った。
その手は、別人のようだった。櫛を持った指は、迷いなく動き、私の髪を、するすると、編んでいった。「あんた、毛が細いね。こういう髪はね、強く引いちゃ駄目。やさしく、すくうの」。鏡の中で、トキさんが、笑っていた。何年ぶりか、わからない笑顔だと、桐山主任が、あとで、教えてくれた。
それから、トキさんの髪は、少しずつ、整っていった。人にやってもらうのではなく、自分で、櫛を、持つようになった。「人の髪を結べる手が、自分のを結べないなんて、みっともないからね」。
私は、あの日から、ずっと、同じ結い方をしている。トキさんに教わった、やさしく、すくう結び方。今日も、下手くそだけど、少しずつ、上手くなっている。
「神マナ物語」は、小規模多機能ホーム「えんがわ」に通う、ボランティアの学生・神崎まなの物語です。 → 登場人物と舞台について(はじめに)
