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第十六話 湯のみは、二つ

フジオさんは、奥さんを亡くしてから、しゃべらなくなった。

八十七歳。一日じゅう、窓の外を、見ている。私は、沈黙が、こわかった。だから、必死に、話しかけた。「いい天気ですね」「テレビ、見ました?」。フジオさんは、何も、答えない。私の声は、宙に浮いて、消えた。

見かねた桐山主任が、ある日、フジオさんの隣に、湯のみを、二つ、置いた。一つを、フジオさんの前に。もう一つを、自分の前に。そして、何も言わず、ただ、同じ景色を見て、座った。二十分。ひとことも、しゃべらなかった。帰りぎわ、フジオさんが、ぽつりと、言った。「……女房も、よく、こうやって、隣に、いてくれてな」。その日、フジオさんが、口にした、たった一つの、言葉だった。

それから私も、フジオさんの隣に、湯のみを二つ置いて、黙って、座るようになった。何も話さない時間が、こわく、なくなった。

ひと月ほど、たった、ある朝。私が、フロアに出ると、フジオさんが、窓辺に、座っていた。そして、自分の前と、隣の席に、湯のみを、二つ、置いて、待っていた。私の席を、用意して、くれていたのだ。

私は、その隣に、座った。二人で、何も言わず、同じ景色を、見た。窓の外は、よく、晴れていた。

「神マナ物語」は、小規模多機能ホーム「えんがわ」に通う、ボランティアの学生・神崎まなの物語です。 → 登場人物と舞台について(はじめに)

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