キクさんは、もう、ほとんど、言葉を、なくしていた。
九十二歳。認知症が進んで、自分の名前も、娘の顔も、わからない。一日じゅう、うつろな目で、宙を見ている。話しかけても、反応は、なかった。
ある日、私が、掃除をしながら、何気なく、古い童謡を、口ずさんだ。「ゆうやけ、こやけの……」。すると。キクさんの口が、かすかに、動いた。「……あかとんぼ」。私は、手を止めた。続きを、歌った。キクさんも、小さな声で、歌った。一番を、最後まで。言葉をなくしたはずの人が、その歌だけは、ぜんぶ、覚えていた。
月に一度、面会に来る娘さんは、いつも、さみしそうだった。母に、もう、自分が、わからない。来ても、見つめられるだけ。何を話していいか、わからず、すぐ、帰ってしまう。その日、私は、思いきって、言ってみた。「あの……お母さんと、これ、歌ってみませんか」。半信半疑の娘さんと、私と、キクさんの三人で、あの歌を、歌った。二番に、さしかかったとき。娘さんが、ふいに、泣き出した。「この歌……子どもの頃、母が、毎晩、私に、歌ってくれた、子守唄なんです」。
顔は、忘れても。キクさんの中には、まだ、娘を寝かしつけた、あの夜が、流れていた。娘さんは、母の手を握って、最後まで、一緒に、歌った。今度は、母が、娘に、歌うように。
「神マナ物語」は、小規模多機能ホーム「えんがわ」に通う、ボランティアの学生・神崎まなの物語です。 → 登場人物と舞台について(はじめに)
