ボランティアに来て、ひと月。私——神崎まな、十九歳——は、まだ、お茶ひとつ、こぼす。
えんがわに、末永さんという、おじいさんがいた。元・国語の先生。八十四歳。口数が少なく、話しかけても「ああ」としか、返ってこない。いつも、窓の外の、桜を、ただ、見ていた。
ある日、私が、配膳のあと、ボランティア用のノートに、その日のことを、書いていると。末永さんが、ぽつりと、言った。「あんた、字が、きたないね」。恥ずかしくて、つい、言い返した。「すみません、急いでて」。末永さんは、ふっと、笑った。初めて見る、笑顔だった。「急いで書いた字ほど、あとで、読めないもんだ。──人のそばに、いるのも、同じだよ」
その言葉が、なぜか、胸に、残った。それから私は、ノートの字を、少し、ていねいに書くようになった。利用者さんの顔も、少し、長く、見るようになった。
桜が散るころ、末永さんは、入院して、戻ってこなかった。最後に会った日、末永さんは、私の手を、取って、言った。「あんたは、急がない。──それで、いい」
その夜、私は、日記の、最後のページに、ゆっくり、ていねいに、書いた。末永さん、と。うまく書けた、初めての、漢字だった。
「神マナ物語」は、小規模多機能ホーム「えんがわ」に通う、ボランティアの学生・神崎まなの物語です。 → 登場人物と舞台について(はじめに)
