ボランティア二週目の、金曜日。
ヤマグチさんは、いつも無口で、相撲ばかり見ている。なのに、金曜の朝だけ、いちばん良いシャツを着て、玄関で、そわそわしている。「今日、お出かけですか」。私が聞くと、得意げに、鼻を鳴らした。「デートだよ、デート」。九十二歳の、デート。
桐山主任の運転する車に、私も、付き添わせてもらった。着いたのは、隣町のデイサービス。そこに、ヤマグチさんの奥さん、キヌさんがいた。三年前から、ヤマグチさんのことを、忘れている。
ヤマグチさんは、奥さんの前に立つと、ぺこりと、頭を下げた。「はじめまして。ヤマグチと、申します」。キヌさんは、きょとんとして、それから、はにかんで、笑った。「あら、ご丁寧に」。私は、息を、のんだ。──毎週、はじめまして、から、やり直しているのだ、この人は。
帰りの車で、つい、聞いてしまった。「つらく、ないんですか。毎週、忘れられてて」。ヤマグチさんは、窓の外を見たまま、けろりと、言った。「なに言ってんだ。こっちは毎週、惚れ直して、もらえるんだぞ。こんな役得、ほかに、あるか」
──今日の日記、何を書こう。私は、ページの隅に、小さく、書いた。「金曜日が、待ち遠しい人が、いる」。たぶん、これは、介護の勉強には、ならない。でも、私が、今日いちばん、忘れたくなかったことだ。
「神マナ物語」は、小規模多機能ホーム「えんがわ」に通う、ボランティアの学生・神崎まなの物語です。 → 登場人物と舞台について(はじめに)
