「あんた、私の財布を、盗んだだろう」
ヨシさんに、そう言われたとき、私は、頭が、真っ白に、なった。八十七歳。認知症の、ある日。みんなの前で、私は、泥棒に、された。「ちがいます」と言っても、ヨシさんは、聞かない。「返して! 警察を、呼ぶよ!」。悔しくて、情けなくて、私は、その日、トイレで、少し、泣いた。
桐山主任は、こう言った。「ヨシさんね、いちばん、信じてる人を、疑うのよ。──こわいの。財布も、記憶も、足元から、消えていく。その不安を、ぶつけられる相手は、いちばん、近くにいる、あんただけ、なの」。
次の日も、ヨシさんは、私を、疑った。私は、言い返さなかった。かわりに、隣に、座って、言った。「一緒に、探しましょう」。二人で、引き出しを、開けた。財布は、いつも、布団の下から、出てきた。そのたびヨシさんは、私の手を、握って、ほっと、した。「あんたが、いてくれて、よかった」。盗んだ、と言った、その口で。
半年が、過ぎたころ。ヨシさんが、新しく来た人を、指さして、叫んだ。「あんた! 私の、財布を、盗んだね!」。私のことは、もう、疑わなかった。私の顔を見ると、安心したように、笑うように、なっていた。
よかった、と思った。なのに、ほんの少しだけ、さみしかった。
「神マナ物語」は、小規模多機能ホーム「えんがわ」に通う、ボランティアの学生・神崎まなの物語です。 → 登場人物と舞台について(はじめに)
