マサオさんは、「ありがとう」を、言わない人だった。
八十七歳。何をしても、礼の一つも、言わない。私が、お茶を運んでも、ふん、と横を向く。布団を、直しても、無言。ボランティアの私は、正直、少し、さみしかった。「感謝されたくて、来てるわけじゃ、ない」。そう、自分に、言い聞かせていた。
あるとき、桐山主任が、教えてくれた。マサオさんは、戦後の焼け跡から、たった一人で、身を起こした人だった。誰にも頼らず、頭も下げず、生きてきた。「ありがとう」も「すまない」も、彼にとっては、負けを、認める言葉だったのだ。
マサオさんが、亡くなる、数日前。私が、ずれた布団を、直していると、マサオさんが、ふいに、私の、袖を、つかんだ。何も、言わなかった。ただ、つかんだ指に、ぎゅっと、力が、こもった。骨ばった、冷たい手だった。けれど、その力は、思いのほか、強かった。私が、つかまれたまま、動かずにいると、やがて、マサオさんは、ゆっくりと、手を、離した。そして、いつものように、ふん、と、横を向いた。
その手の、力の強さだけが、いつまでも、私の袖に、残っていた。
「神マナ物語」は、小規模多機能ホーム「えんがわ」に通う、ボランティアの学生・神崎まなの物語です。 → 登場人物と舞台について(はじめに)
