タダオさんは、しょっちゅう、施設から、いなくなる。
八十八歳。目を離すと、いつのまにか、いない。職員さん総出で、近所を、捜す。だいたい、見つかる場所は、決まっていた。坂の下の、小さな公園のベンチ。「タダオさん! 勝手に、出ちゃ、駄目でしょう!」。みんなが叱ると、タダオさんは、決まって、こう言う。「ちょっと、約束が、あってな」。
ある日、私は、こっそり、後をつけてみた。タダオさんは、公園のベンチに座ると、ポケットから、煮干しを、取り出した。すると、どこからともなく、痩せた野良猫が、一匹、現れた。タダオさんは、その猫に、煮干しをやりながら、話しかけていた。「おう、来たか。今日も、ちゃんと、食ってるか」。
あとで、わかった。その猫は、タダオさんが、亡くなった奥さんと、可愛がっていた猫に、よく似ているらしい。
それから、私は、タダオさんが“約束”に出かけるとき、知らないふりをして、ポケットに、煮干しを、そっと、入れておくようになった。「タダオさん。約束、遅れますよ」。タダオさんは、にっと笑って、坂を、下りていく。
猫が、待っている。
「神マナ物語」は、小規模多機能ホーム「えんがわ」に通う、ボランティアの学生・神崎まなの物語です。 → 登場人物と舞台について(はじめに)
